日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

ネルー首相訪ブ60周年記念 近代化の幕開けを振り返る

早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター助教 平山雄大

今から60年前の1958年9月に、インド独立運動の指導者から初代首相となったジャワハルラール・ネルー(当時68歳)と、娘で後のインド第5代・第8代首相のインディラ・プリヤダルシニー・ガンディー(当時40歳)がシッキム―当時のシッキム王国、現在はインドのシッキム州―からチベット経由でブータンを訪問しました。

細かく行程を追うと、ネルー首相御一行は9月16日にデリーから飛行機でバグドグラ空港に向かい、その日うちに車でシッキムの首都ガントクに到着。その後ガントクからチベットのヤートンへと歩を進め、19日にブータンに入国。ヤクに乗りダムタン経由でたどり着いたハで1泊した後、21日から5日間パロに滞在。復路は往路と同じ道をたどり、10月2日にバグドグラ空港からデリーに戻り合計17日間の旅を終えました。

ダムタン。現在はブータン最大の軍事基地。

長年にわたってインド軍の施設として利用されているハ・ゾン。

ハとパロの間に位置するチェレ・ラ(峠)。看板には「標高3,988メートル」の文字が。

ブータンにとってのネルー首相来訪は、例えば日本にとっての黒船来航と同様、「太平の眠りを覚ます」大きな出来事であったと言えます。

インドは1947年にイギリスから独立し、1949年8月8日にブータンと「インド・ブータン友好条約」を結びました。この条約によって「インドはブータンの内政に干渉しないこと」、「ブータンは外交をするうえでインドの指導を受けること」が取り決められましたが、当時のブータンの国家運営の原則は「まず自国の若者を教育し、それから近代化を」というものであり、他国への依存は避けられていました。

一方で、対中国を見据えた安全保障政策として、インドはどうしてもブータンを味方に引き入れておく必要がありました。そこでネルー首相は、孤立主義政策を修正しインドの経済援助を受け入れるよう、現国王のおじいさまである第3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュク(当時30歳)に強く促すために訪ブしたわけです。このときパロでは、インドとブータンを結ぶ自動車道路を建設することや、防衛の強化のためにインド軍をブータンに駐留させること等について、ブータンの初代首相ジグメ・パルデン・ドルジ(当時38~39歳)や政府高官も交えて協議が行われました。

ネルー首相がパロ滞在中に宿泊していたウゲン・ぺルリ・パレス。

ネルー首相がブータン国民に向けて演説を行った台。

ライトアップされたパロ・ゾン。

大国間の衝突への関与を可能な限り忌避したいこと、さらに(おそらくは)近代教育を普及する試みが始まったばかりで開発を本格化させるのは時期尚早だとの懸念から、第3代国王は即答を避けています。しかし、その年の第11回国民議会及び翌年の第12回国民議会において道路建設及び陸軍本部の設置が決議され、インドの全面的な後押しのもとで開発が実行に移されることになりました。

以降、「まず自国の若者を教育し、それから近代化を」という国家運営の原則は大きく崩れ、1961年から(100%インドの経済援助による)第1次5ヵ年計画が開始され、急ピッチで開発が推し進められていきます。インドからの自動車道路が完成し、外国製品がどんどん流入しはじめました。さらに各方面にインド人アドバイザーがつき、学校でも多くのインド人教員が教鞭をとるようになっていきます。

ネルー首相が往路・復路ともに立ち寄ったガントク(当時のシッキム王国の首都)。

現在のバグドグラ空港。

ヤク。ブータン国内の一部で、ネルー首相の移動手段として用いられた。

「太平の眠りを覚ます」ネルー・インパクトの結果開始された5ヵ年計画を主軸に置く開発は、規模を拡大させながら、そしてブータンとしてのオリジナリティを注入させながら代々引き継がれ、今年からは第12次5ヵ年計画が始まる予定です。

WAVOCブータンコラム「助教 平山のブータンつれづれ(第15回)」より転載。
https://www.waseda.jp/inst/wavoc/news/2018/02/28/3171/