日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

100年前のブータン人留学生

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1924年にSUMIで撮影された教員とブータン人留学生らの集合写真

早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター助教 平山雄大

ブータンの学校教育史を調べていくと、「本格的な学校教育の拡充が目指されはじめた1960年代より以前のことは、どうにもよく分からない…(泣)」という問題にぶち当たります。国内には記録がほとんど残されておらず、『ブータン教育史』のような拠り所となる先行研究もありません。ゆえに有識者の中にも統一した見解がなく、いろいろな人がいろいろなことを言っています。

第12学年(≒高校3年)の歴史教科書では、1914年に46人の少年が隣国インドのカリンポンにあるドクター・グラハムズ・ホーム(Dr. Graham’s Homes)に留学したことが、ブータン人の近代学校教育受給の始まりとされています。しかし、彼らの留学先は本当にその学校だったのか、彼らはその後インドで学業を続けたのか、さらには本当に1914年だったのか、46人と言うがそれはどこの誰なのか…等、細かいところで疑問がたくさん出てきます。

カリンポンに行き、ドクター・グラハムズ・ホームが100年以上前から発行し保管している雑誌や在学者名簿を丹念に調べてみても、当時彼らが留学していた痕跡を見つけることは叶いませんでした(同校に初めてブータン人が留学したのは1961年だという事実のみが分かりました)。細かい説明は省略しますが、どうも彼ら100年前の留学生が学んでいたのはドクター・グラハムズ・ホームではなく、同じくカリンポンにあるSUMI(Scottish Universities’ Mission Institution)だったようです。SUMIに残された写真をはじめ、いくつかの客観的事実がそれを証明しています。

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彼らに求められたのは、ブータンの近代化を担う知識や技術の習得です。ロンドンの大英図書館に足を運び、当時シッキム王国(現在のインド・シッキム州)に駐在していたイギリス人政務官の年次報告書等を読み解いてみたところ、彼らのその後の状況にある程度迫ることができました。要約すると以下の通り。

  • 1920年代に入ると、留学生の中には大学入学資格試験を受験する者が現れ、合格者はデヘラードゥーン(ウッタラーカンド州)の森林学校、カルカッタ(西ベンガル州)のベンガル工科カレッジ、ベンガル獣医カレッジ、キャンベル医学学校、バーガルプル(ビハール州)の教員養成校といったインド北部・東部に位置する高等教育機関へ進学し、それぞれ森林保護官、鉱山技術者、獣医、外科医、教員になるために学業を続けた。
  • 製革の技術を磨くために、カンプール(ウッタル・プラデーシュ州)の馬具・鞍具工場に派遣された者もいた。
  • 大学入学資格試験に合格していない者の中には、シロン(メガラヤ州)のグルカ連隊に所属し軍事訓練を受けたり、パラミュ(ジャールカンド州)でラック養殖の実用訓練を受けたりした者がいた。
  • 1920年代後半から1930年代前半にかけてそれぞれの学業・訓練を終えブータンに帰国し、国造りの柱となっていく。

学校教育史ひとつをとってもまだまだ分からないことだらけで、調べるべきものは山ほどあります。統一した見解がないブータンの諸相を解き明し真実を追究する地域研究・歴史研究は、宝探しのようなドキドキ・ワクワクに溢れていて、一度はまると抜け出せなくなってしまうので要注意です。

WAVOCブータンコラム「助教 平山のブータンつれづれ(第7回)」より転載。
https://www.waseda.jp/inst/wavoc/news/2017/05/31/2755/