日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

黎明期からのブータン観光

日本ブータン研究所 脇田 道子

1976年のブータン

私の最初のブータン訪問は、1976年12月のことです。6人の日本人旅行団の添乗員としての訪問でした。大学卒業後、東京の小さな旅行会社に就職していました。その会社は1974年に初の日本人旅行団をブータンに送っていましたが、私のグループはその3団目でした。ツアーのタイトルは、『秘境ブータン』で、1958年にブータンを訪問された中尾佐助先生の著書のタイトルにあやかったものでした。当時の日本人がブータンを知るきっかけになったのが、この本と1974年6月2日に営まれた第4代国王ジグメ・センゲ・ワンチュックの戴冠式を伝えるニュース報道でした。

ツーリストは6人以上のグループを組み、唯一の入国ポイントだったプンツォリンにインドから陸路入国しなければなりませんでした。インド側のジャイガオンの国境事務所で出国手続きを済ませ、極彩色に塗られたプンツォリンの門を潜り抜けると、まるで別世界へ入り込んだような錯覚に陥ったものでした。ブータン側の入国事務所の職員の歓迎を受け、国営ホテルでは従業員が大変礼儀正しく接客してくれました。フロントのスタッフが、両手で恭しく鍵を渡してくれた時には驚きましたが、すべてのサービスがVIPに対するものと同等でした。ホテルの従業員を含むブータン国営旅行社(Bhutan Travel Agency)のスタッフの多くは、1974年の戴冠式に招待された世界各国からの賓客をもてなすために特別の訓練を受けていましたので当然のことだったといえます。「ブータンは、好機に満を持して外国人観光客の受け入れを開始した」と今でも思います。

そのころのティンプーの人口は約4万人、私の母校早稲田大学の当時の学生数と同じぐらいでした。タシチョ・ゾンは水田と小さなゴルフ場に囲まれ建物もまばらでした(写真上)。

パロもティンプーと同様でしたが、より静寂に包まれ、天国のように安らかな谷という印象でした(写真下)。

厳冬期にもかかわらず、ほぼ毎晩停電状態でしたが、ホテルの従業員たちが踊りや歌で私たちを慰めてくれました。パロの商店街は、日本の昔の宿場町を彷彿とさせる趣がありました。

頻発する火災

残念ながら、パロ・バザールは1986年に焼失し、後に道路を拡張して再建されたのが現在のものです。

プナカ・ゾンも同じ年に一部が焼けましたが、最大の衝撃は、1998年にタクツァン僧院が大火に見舞われたことです。当時、地元の人びとの多くが闇夜の中で燃え続ける僧院を遠くに眺めながら悲嘆にくれているという知らせに心が痛みました。直後に勤めていた旅行会社のお客様たちに寄付をお願いしましたが、ありがたいことに数百人の方々が応じてくださいました。2004年に内装も外装も以前に増して壮麗に再建されたタクツァンを訪問した時の感慨はひとしおでした。

それにしても、ブータンは火事が多すぎます。ブムタンのチャムカルで2010年、2011年に起きたバザールの連続火災、2010年のケンチョースム・ラカン、そして2012年のワンデュ・ポダン・ゾンの火災など、繰り返される火災には、驚きを通り越して、またかとうんざりしています。

さて、インド旅行の毎日の平均的な支払いが40米ドルだった1970年代に、ブータン旅行は130米ドルでした。この高額な旅費にもかかわらず、小さいグループの集客にはさほど苦労しませんでした。それは、ツアーに参加される方々が、新しく門戸を開いた王国に興味を持ち、暖かなもてなしに喜んでお金を使ってくださったからです。

ホテルがなかったブムタン

1982年10月に、中央ブータンを観光客に開放する前のブータン政府による研修旅行に招待されました。私のほかには、アメリカ、ドイツ、スペイン、インドから一人ずつが参加しました。今では考えられないことですが、当時はブムタン地方にはホテルが一軒もなかったため、現在の空港がある場所の近くの河原に張ったテントに宿泊しなければなりませんでした。キャンプ・ファイヤーと身体を内部から温めるためのウイスキーなしでは寒くて眠れなかったことを覚えています。

翌年から、中央ブータンへのツアーを開始し、数年はテント泊が続きました。雨期には血に飢えたヒルに悩まされ、がけ崩れで道路が封鎖されるなどのトラブルにたびたび遭いました。それでも少数ながらツアー参加者は、多種多彩なシャクナゲや由緒ある寺院や僧院に大喜びでした。民家を訪ねて手打ちソバを日本から持参した麺つゆで味わい、草木染や織物を楽しみました。テント泊であっても、設備に関して苦情をいう人は一人もいませんでした。

苦労した通信

旅行を手配する側にとって最大の頭痛の種は通信手段が限られていたことでした。ブータン観光の歴史は通信手段の発達史といっても過言ではありません。1970年代は、ブータンへの入国申請書類は、ニューデリーにあるインドの旅行会社に郵送していました。インド内務省にブータン入国に必要なインナーライン(インド内郭線)通貨許可書を申請するためです。ブータンが独立国であるにも関わらず、北東インド諸州と同様に西ベンガル州の国境地帯を通過するための許可書の所持が義務づけられていたからです。インドの郵便事情が悪く、郵送には1ヶ月以上を要し、許可を得るのに数か月かかることもありました。1983年に国営ドゥック航空のプロペラ機がカルカッタ・パロ間に就航したときはどれだけ嬉しかったことでしょう。空路で入国する人にはインナーライン許可書が不要だったからです。

70年代、書類を郵送する十分な時間がない場合には、パスポート番号などの個人情報を電報で送っていました。ファックスなどない時代の話です。まず、日本の電報局に電話して、オペレーターに英文の電文を口頭で伝えるのですが、たとえば、WAKITAという名前のスペルは、「ワシントン(のW)、アメリカ(のA)、神戸(のK)、アイスランド(のI)、東京(のT)、アメリカ(のA)」といった具合に都市名を使って延々と英文を伝えるのですが、10人分のデータを流すのに、2時間以上かかったこともあります。それは私が流した全文の確認のためにオペレーターが電話口の向こうから復唱するからです。この電報送付の作業の緊張と苦労は、今でも忘れられません。

80年代になって、テレックスが導入され、ブータンと直接通信ができるようになりました。ただ、ティンプーとの通信は、先方の電力事情にかかっていました。しばしば停電が続き、メッセージが送受信完了となるまでに数日かかるのは当たり前のことでした。

1989年、ある団体のパロ滞在中に参加者の一人が心臓発作で急死されました。添乗員から東京にいた私に電話で第一報が入りましたが、それは唯一国際電話が通じたパロ空港からでした。ご遺体を一刻も早く日本にお送りしたかったので、ニューデリーから東京までインド航空を手配しましたが、問題はブータン・日本間の電話が通じにくいことでした。さまざまな方々の協力を得て、その日のうちにご遺体とグループ全員をカルカッタ、デリー経由で日本にお送りすることができました。これは当時としては奇跡的な離れ業で、文字通り、不幸中の幸いでした。通信手段の改善が急務であることを痛感させられた出来事でした。

その後、1990年代には電話がだいぶ通じるようになり、ファックスが使えるようになりました。しかし、ブータン側が停電では送受信はできません。その電力事情も次第に改善され、1999年にはようやくインターネット通信が可能になりました。おかげで通信費のコスト削減ができ、1991年に民営化されたブータンのツアー・オペレーターにとっても大きな利点となりました。

ブータン紹介

2000年に875人だった日本人訪問者は、急激に増加し、2012年には6,967人に達しました。これは、ひとえに2011年の第5代国王夫妻の日本訪問を契機にブレークしたブータンブームのお陰です。大地震と津波に見舞われた年の国王夫妻の来日は、多くの日本人に大きな感銘を与えました。仏教界の首相に相当する高僧、ドルジ・ロポン・リンポチェも同行され、福島で犠牲者のために特別な祈りを捧げられました。

その22年前、第4代国王が、1989年2月24日の昭和天皇の大喪の礼に参列されました。滞在時間は数日間だけでしたが、ゴに身を包んだ若き国家元首の堂々たる姿は多くの日本人の心を打ちました。まさに国家の品格を示されたといえるでしょう。

最近は、書籍やインターネットを通してブータンに関する情報取得が容易になっていますが、1978年に西岡京治・里子夫妻の『神秘の王国』が出版されるまでは、ブータンの人びとの生活を日本人に詳しく伝える書物はありませんでした。

日本人の多くが故ダショー西岡のブータン農業に対する貢献については知っていますが、里子夫人の日本での働きに関してはあまりご存じないと思います。彼女は、ダショーと共に11年間ブータンに滞在した後、お子さんたちの教育のために帰国されましたが、ブータンを日本に紹介するためにエネルギッシュに活動されました。

1981年の神戸でのポートピアをはじめとする多くの展覧会、展示会を主催されました。それらははじめ神戸を中心としていましたが、後に大阪、東京、他の地方都市などに広がって行きました。現在では入手困難な質の高い織物、漆器、銀製品、そして仮面などのブータン手工芸品の実物を見ることができたことは、日本人にとって大変幸運なことだったといえるでしょう。これらは、夫人の審美眼と長年のブータン滞在によって収集されたものです。

今ではブータン旅行に欠かせない『地球の歩き方ブータン編』の前身である『地球の歩き方フロンティア・ブータン』が出版されたのは、1991年のことで、当初からの編集責任者の高橋洋さんによってブータン編は現在まで多くの版を重ねています。このガイドブックがブータン観光の促進に大きく貢献していることは言うまでもありません。

私とブータン

ここで、私の個人的なブータンとのつながりに触れさせていただきたいと思います。私にとってかつてブータンは、好きな国の一つではありましたが、特別な国というわけではありませんでした。1980年代までは、世界各地へのツアーを添乗したり、コースの企画をしたりと多忙な毎日を送っていました。仕事には満足していましたが、子供ができないことが悩みでした。1990年に親しい友人の一人が子授けの寺であるチミ・ラカンに私を無理やり引っ張って行きました。この寺は地元の人びとにはよく知られていましたが、当時は外国人の立ち入りは正式には許されていませんでした。驚くことにこの参拝から数か月して妊娠がわかり、翌年4月に娘を授かりました。結婚から15年目のことでした。寺院の名前から娘の名前はチミ(千実)と名付け、ブータンは私や家族にとって特別な国になりました。

娘が生後6か月の時から何度もチミ・ラカンに参拝していますが、90年代はロべサ村からお寺まで道路はなく、田んぼの畦道を歩いたものです。現在は、自動車道路ができ、寺のすぐ近くまで車で行けるようになり、ただの農村だった村には数軒の農家が自宅を改装してレストランを開くまでになりました。2012年にワンデュ・ポダン・ゾンが焼失してからは、ゾンの代わりにチミ・ラカンを訪れる観光客が増え、小さな寺の内部は常に混み合って、喧騒に包まれるようになってしまいました。2014年12月には、ドゥクパ・キンレの大きなトンドルが完成し披露されました。これからますます、多くの人が訪れるようになることでしょう。

2000年代前半に、30年近く勤めた旅行会社を退職し、大学院で学びなおす道を選びました。インドのアルナーチャル・プラデーシュでのフィールドワークを通じて、東隣からブータンを眺めるようになりました。アルナーチャル・プラデーシュ州は中国が領有を主張している地域で、長年入域禁止でしたが、1992年に外国人に門戸を開放しました。州政府は経済振興と雇用の促進のために多様な民族文化を目玉に観光開発を試みていますが、さまざまな要因から、うまくは行っていません。

潜在性を秘めながら観光に発展が見られないのは東ブータンも同様でしょう。たとえばタシヤンツェの山村では昔ながらの紙漉きが見られ、ブムデリン谷では至近距離でオグロヅルの写真を撮ることができます。手織り布を求めて村々を歩くのも東ブータンの楽しみです。2014年11月のタシガン・ツェチュを見学しましたが、もったいないことに観光客の数はごくわずかでした。2010年には、それまで禁断の地だったサクテン、メラがツーリストに解禁されました。しかし、地元の人が観光に携わり、その恩恵を得るという状態にはまだなっていません。

私自身は、ずっとブータンに通い続けてきたため、変化するブータンに気づかないこともありますが、1976年のグループのメンバーの中に、あれから39年の間、一度もブータンを再訪していない女性がいます。86歳になる今もお元気で、今年中にもういちどブータンを再訪したいと言っていますが、現在のブータンを見て、彼女がどんなリアクションを見せるか大変興味あるところです。

(本稿は、ブータン政府観光局が出版した雑誌”Bhutan 2015″の第4代国王還暦記念特集号に英語で寄稿したものを和訳し、若干の加筆・修正をしたもので、ゾンの写真2枚は神谷公子さんが1976年に撮影したものです。)

※日本ブータン友好協会『日本ブータン友好協会会報 ブータン』第128号、2-5頁より転載。