日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

近代学校教育の曙

ブータンにおいて近代学校教育の拡充が本格的に目指されたのは第1次五カ年計画開始以降(1961年~)のことであるが、それ以前にも国内には多くの学校が存在していた。これらの学校については十分な検討がなされておらず、特に南部のネパール系住民(1958年に国籍法が発布されるまでブータン国籍は未取得)の多い地域で設立された学校に関しては、その詳細が知られていなかった。今回、自身の近代学校教育史研究によってその一端が解明されたので、研究の成果をふまえつつ、第1次五カ年計画開始前の近代学校教育事情をまとめてみたい。

教育機関というと僧院学校(チベット仏教の僧侶の養成機関)しかなかったブータン国内において、近代学校教育の萌芽が見られるのは今から約100年前のことである。以降約30年間は、「ハの学校」と「ブムタンの学校」が少数精鋭のエリート教育の場として機能していた。この2校に関しては依然として不明な点が多いが、当初の「ハの学校」はインドのカリンポンに留学していた生徒が学校の休業期間中に本国で講習を行うためのもの、「ブムタンの学校」は王族の季節移動(夏はブムタン、冬はトンサ)に伴って場所を変える移動式のものであったと推察される。

その後、近代学校教育が一般に開かれ大きな動きを見せ始めるのは1950年前後である。例えばハでは、後に初代首相となるジグメ・ドルジが旧来の「ハの学校」を男女共学の近代学校に作り変えており、同学校の第1期生は、一般に開かれた学校としては国内初の初等教育修了生であると認識されている。以降各地に多くの学校が作られるが、それらには、①地方行政官の主導のもと公立学校として開校した、②比較的大規模なものが多かった、③基本的にヒンディー語を教授言語としていた、④ブータン人が教員を務めていた、といった共通点を見出せる。

当時の為政者に共通していたのは、国の独立維持に対する危機感と、近代学校教育の普及をもってして近代国家の礎を築き、社会経済開発を成し遂げようという姿勢である。ブータンの歴史はこれ以前もこれ以降も国家の存続をかけた苦難の連続であったと言えるが、1950年代の地域情勢、とりわけ中国によるチベット侵攻をふまえ、当時は独立を維持するという意識が通常以上に高まっていた。

しかしながら、子供の親は僧院学校と違い我が子の将来が約束されず、徳を積むことにも繋がらない近代学校に彼らを通わせることに消極的であり、近代学校の存在を歓迎しなかった。教員らは村に赴き親を説得し、地方行政官はゾンに親を呼び出し説得し、ときには奇策を施して子供を集め学校へと通わせた。

生徒集めに苦心した初期の学校

例えばトンサでは、教員が各村を訪ね歩き、一家に2人以上の男児がいる場合はそのうち1人を学校に行かせるよう説いて回ったという記録が残されている。モンガルのある子供の祖父は、就学者リストから孫の名前を削除してもらうよう知己の役人に頼み了承を得たが、地方行政官からの布令が届き半強制的に就学させられてしまった。ゾンに呼び出された親たちは、「我が子は耳が聞こえない/口が利けない」と虚偽の嘆願をし、子供が連れて行かれることを拒んだという。

ハで上記の第1期生を就学させる際にジグメ・ドルジが生徒集めに使った方法は、「ゾンで祭りを開催するので全員必ず集まるように」と各村に通達を出し、集まった村人をもてなしている最中に子供を捕まえて名前を聞き出し、就学者リストに登録していくというものであった。多くの親は我が子を隠すのに成功したが、両親と離れて祭りを観賞していた者は見事に捕まり第1期生となったようである。この当時、国民は近代学校教育を受容したというよりは、受容するよう説き伏せられたと言ったほうが合っている。

南部の教育熱とその理由

一方で同時期、入植したネパール系住民によって自治が行われていた南部各県では、上記のような学校とは別に、ネパール系住民による独自の学校が作られていた。一例を挙げると、サムツェのとある地区では、地元の名士が家の一部屋を教室として開放し、住民に請われるかたちでインドから教員が赴任している。またサルパンでは、ヒンドゥー教寺院の境内で、寺院の管理人兼所有者であった家族が生徒1人あたり10ルピー/年を徴収して学校を運営していたという記録が存在する。

こうした学校は、①住民からの強い要望によって作られ私立学校として開校した、②寺子屋のような比較的小規模の学校であった、③ヒンディー語もしくはネパール語を教授言語に採用していた、④インドやネパールからも教員を招聘していた、といった特徴を有していたが、第1次5ヵ年計画開始以降徐々に政府によって整備され公立学校に組み込まれていく。

双方の学校の対照的な特徴を考察すると、ブータン人(チベット系住民)の学校が「上からの学校教育の普及」といった様相を呈しているのに対し、ネパール系住民の学校は「下からの学校教育の普及」と形容しうるものであることが分かる。ただし、これは必ずしも文化的相違によるものではなく、背景には当時のブータンの「まず自国の若者を教育し、それから近代化を」という国家運営の原則や、インド独立に端を発するネパール系住民の民族的アイデンティティの確立・再確認の機運の高まり等があったと考えられる。

1958年9月、インド初代首相ネルーが娘で後の5代首相インディラ・ガンディーを伴ってブータンを訪問し、パロへと到着後、両国が今後採るべき方策について3代国王と協議した。協議の内容は防衛の強化と友好の再確認であり、ネルーは3代国王に対し、孤立主義政策を修正し、インドの経済支援を受け入れるよう強く促した。当然、そこには対中国を見据えたインドの安全保障政策があり、ネルーはインドとブータンを結ぶ自動車道路の建設を強く提言している。

大国間の衝突への関与を可能な限り忌避したいこと、さらにおそらくは近代学校教育の普及が始まったばかりで近代化するには早すぎるとの懸念から3代国王は即答を避けているが、その年の第11回国民議会及び翌年の第12回国民議会において道路建設及び陸軍本部の設置が決議され、インドの全面的な後押しのもとで開発が実行に移されることになる。

そのような中、それまではっきりとは確認されていなかった近代学校教育の導入が正式に決められた。1959年10月に開催された第13回国民議会の議事録・決議録の中に、「教育はあらゆる国の発展に不可欠であるため、わが王国の学校に近代教育を取り入れることが決議された。そのようにして、社会経済的自立を促進し、外国人労働力への依存を軽減する」との一文が見られる。以降、第1次五カ年計画が開始されたブータンでは統一された学校教育制度やカリキュラムの導入、教授言語への英語の採用等が実施されていき、双方の学校はひとつのかたちに収斂していく。

(早稲田大学 平山 雄大)

※『地球の歩き方D31 ブータン(2014~2015年版)』288-289頁より転載。