日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

映像を通して振り返るブータン近現代史

平山 雄大
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター講師

1. ブータン関連映像

「ブータン関連映像」というと、何が当てはまるでしょう。

まず思いつくのは日本のテレビ番組だと思います。小さな国の割にはまあまあの頻度で取り上げられるブータン。今年も、BS11『世界の国境を歩いてみたら… インド×ブータン編 一本の線を越えると別世界が広がる国境』(6月14日)、NHK BS1『BS世界のドキュメンタリー ブータン サッカー少女の夢』(8月6日)、NHK BSプレミアム『体感!グレートネイチャー 幸福の大絶景ヒマラヤ・ブータン』(8月17日)といったブータンに焦点を当てた番組が放送されました。8月の悠仁さま訪ブの際は、ワイドショーで連日紹介されたりもしていました。

懐かしいところでは、①「王都の仮面祭り」/②「幻の王家の谷へ」と2回に渡って放送された『秘境ブータン』(1983年、NHK)、ブータンで暮らしはじめて3年目の西岡夫妻を追った『世界の日本人』(1967年、MBS)、同じく西岡夫妻が登場する『小さな国々 ヒマラヤの秘境ブータン』(1967年、NHK)等もあります。

日本以外の国の番組も探せばたくさん出てきます。中でも古いのは、イギリスのBBCが1968年に放送した『The World about Us: Letter from Thimphu』でしょうか。トブゲという少年の視点からティンプーを眺めるという作りのこの番組は、上記『小さな国々』と並び当時のブータンをカラー映像で残しています。

さらに貴重な映像資料としては、英領インド時代にシッキムに駐在していたイギリス人政務官がブータン訪問時に撮影した16mmフィルム映像や、ネルー首相が訪ブした際のインド政府による公式記録映像が挙げられます。第3代国王やドルジ首相がインドを訪問した際の映像や、第4代国王の戴冠式を撮影したもの等も面白いです。少々マニアックなところでは、1952年にドイツの国立科学映画研究所が始めた「世界中の知の記録の集積」を目指した映像アーカイブ事業「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」の中に、僅かながらブータン関連のものが存在します。

ウゲン・ワンディ監督によるドキュメンタリー作品『思いを運ぶ手紙』(2004年)や『学びへと続く道』(1999年)を思い浮かべたかたもいらっしゃるかもしれません。前者はリンシまで徒歩で手紙を配達する郵便配達員の物語、後者はトンサ県センジ村の少年に焦点を当て、片道2時間半の彼の通学風景を描いた作品です。

昨年、日本各地の映画館で上映された『ゲンボとタシの夢見るブータン』はいかがでしょう。ブータン人のアルム・バッタライとハンガリー人のドロッチャ・ズルボーという2人の若手監督がタッグを組んで製作されたもので、ブムタンの古刹チャカル・ラカンを代々守る一族の後継者問題を中心に据えた意欲的な作品でした。

そして、インターネットにはブータン関連映像が溢れています。「ブータン」「Bhutan」等で検索すれば、個人撮影の旅行記録、ブータン政府観光局の公式観光PR動画、ブータン音楽、ブータン映画、学校の学芸発表会(スクールコンサート)の様子、BBSのニュース映像…等あらゆるジャンルの動画がヒットします。

次回のティータイムでは、記録映像から娯楽映画に至るまで特に面白そうなものを抽出し古い順に並べ替え、それらを通してブータン近現代史を振り返ってみようという挑戦的な試みをしてみたいと思います。

2. ブータン近現代史

ブータンがイギリスと接触し外に開かれ、王国が誕生し発展していくここ150年ほどの近現代史をざっとおさらいしておきます。

◆イギリスとの接触

18世紀前半に北=チベットとの関係を安定化させたブータンは、南=インド方面への進出に力を入れはじめます。当時のブータンはベンガルからアッサムにかけての低地(ドゥアール地方)に現在の国土の3割に及ぶ支配地域を有し、交易と同時に貢納を強いたり奴隷狩りをしたりしていました。

このことはイギリス(英領インド)との衝突を招き、1864年にドゥアール戦争に発展しました。ブータンは敗北し、その結果締結されたシンチュ・ラ条約によってドゥアール地方の領地をすべて失ってしまいますが、代わりにイギリスから毎年一定額の補償金を受け取ることになりました。この経済構造の変化はブータンの旧体制の権力構造に変化をもたらし、また、新しい国際秩序に対応できる中央集権的な政府の必要性を認識させるようになりました。

◆ジグメ・ナムゲルの活躍

このような状況の中で急速に権力を掌握することに成功したのが、東部のクルトェ(現在のルンツェ県)出身のジグメ・ナムゲルでした。ジグメ・ナムゲルは若いころに家を出てトンサ・ペンロプ(総督)に小姓として仕え、そこから実力で頭角を現して後継者にまで上り詰めました。トンサ・ペンロプはデシ(執政)に次ぐ要職で、彼はその地位を得ると、東部の対抗勢力を次々に撃破して自身の影響力をプナカの中央政府に匹敵するものにまで高めました。1870年にはデシに就任し、その後の反乱もすべて鎮圧し、1881年に没する際には国内の全権をほとんど掌握していました。

◆ブータン王国の誕生と発展

ジグメ・ナムゲルが亡くなるとまた反乱が起きましたが、息子のウゲン・ワンチュクはその鎮圧に成功して先代の権力を継承しました。彼は国内の安定を図ると同時に、イギリス人の陸軍将校フランシス・ヤングハズバンドのチベット遠征に仲介役として協力し、イギリス政府の支持を取りつけることに成功します。このような情勢の中で、ウゲン・ワンチュクは1907年に世襲制の王位(初代国王)に就き、1910年にはイギリスとの間にプナカ条約を結びました。

続く第2代国王ジグメ・ワンチュク(在位1926 ~1952 年)も20年以上に渡って新体制の強化に努め、1949年にはインド・ブータン友好条約が締結されました。

第3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュク(在位1952~1972年)は「近代化の父」と称され、ジグメ・パルデン・ドルジ(ドルジ首相)を初代首相に任命し、農奴の開放、国民議会の開催、政府諸機関の整備等を実行しました。1959年のダライ・ラマ14世のインド亡命及びそれに続く中印戦争の勃発で、それまでチベットと繋がりの強かったブータンはインドとの関係を急速に深めていきます。1960年代以降は外交的、軍事的、経済的、技術的にインドへの依存を深める一方で、国際社会における独自のポジションを獲得しようという試みが粘り強く続けられました。1962年にはコロンボ計画に加盟し、1969年には万国郵便連合、さらに1971年には国際連合への加盟を果たします。

若干16歳で即位した第4代国王ジグメ・シンゲ・ワンチュク(在位1972~2006年)は、先代国王の路線を継承する堅実な政策で国際社会におけるブータンの地位を高めることに成功しました。同国王の発案である「国民総幸福(GNH)」という開発哲学は国政に活かされ、その指標化の試みや調査内容は諸外国から広く注目されています。
続く第5代国王ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク(在位2006年~)の治世において初の国民議会選挙が実施され、ブータンは民主制へと移行しました。

※参考・引用 『地球の歩き方』編集室編(2018)『地球の歩き方D31 ブータン 2018~2019年版』ダイヤモンド社。

3. 映像と近現代史

私の知る限り、ブータン国内の様子を記録した最も古い映像は、1933年に当時のシッキム政務官フレデリック・ウィリアムソンが撮影したものです。この映像から当時のハ、パロ、トンサ、ブムタン等の様子が分かりますが、ハの子どもたちが洋服(体操着)を着てボクシングをしている場面があり、当時の交通の要衝ハがいかに外国製品で溢れハイカラな土地だったのかを想像することができます。フレデリック・ウィリアムソンの映像は、第2代国王御一行がカルカッタを訪問した際のものやシッキムでのドルジ家(当時3歳のアジ・ケサンも!)を写したものも含まれており、史料的価値が非常に高いです。

1958年にネルー首相がブータンを訪れた際の公式記録映像『Prime Minister Visits Bhutan』もまた、ブータンファンにはたまらないお宝映像満載です。「太平の眠りを覚ます」大事件だったと言えるネルー首相の来訪を受け、ブータンは近代化のスピードを速め(ざるを得なくなり)インドの全面的支援のもと国家開発を遂行していきますが、電気もない、車もない、銀行も高校もない…「ないものはない」近代化前夜の風景がそこには広がっています。

AP通信のアーカイブ等には、1960年代に入りインドの工場・施設を熱心に視察する第3代国王やドルジ首相を捉えた映像が複数残っています。また1968年のインディラ・ガンディー首相の訪ブにあたり、病院ができ、銀行ができ、学校が整備され、新聞が印刷され、さらに電気が繋がり車も通りはじめた近代化著しいブータン国内の様子が記録されています。ネルー首相訪ブからたったの10年でのこの急激な社会変化!ティータイムで、NHK『小さな国々』(1967年)やBBC『Letter from Thimphu』(1968年)のカラー映像も参照しながら、当時の変わりゆくブータンを改めて感じてみたいです。

1974年の第4代国王の戴冠式もまた、インド政府の公式記録映像『A King is Crowned』として残されています。戴冠式の模様はもちろんですが、完成したばかりのメモリアル・チョルテンやティンプーのノルジン・ラム(メイン・ストリート)の様子等も紹介されており、これまた貴重な映像と言えましょう。

そして1980年代に入るとブータン関連映像は一気に多様化していきます。日本をはじめ国外のテレビ番組で取り上げられる機会が増え、国内では映画産業が生まれ国産映画第1作『Gasa Lamai Singye』(1989年)が封切られました。さらに1999年にはBBSのテレビ放送が始まり、同時に導入されたインターネットを通して発信力も強まっていきます。

12月21日(土)、いろいろな小ネタを用意しておきます。よろしければぜひお越しください。

※ヤクランド『ヤクランド通信』第92号、6-9頁より転載。