日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

半世紀前のパロの様相―「近代」の幕開け―

平山雄大さんに聞く半世紀前のパロの様相―「近代」の幕開け―

今年最後のブータン・ティータイムは、平山雄大さん解説・ブータンの古い映像シリーズです!今日はそのみどころをお聞きしました。

■ 平山さん、古くて新鮮な映像、楽しみです。今度は何を見せていただけるのでしょうか?
今回のティータイムでは、1958年9月に初代インド首相ネルーと娘のインディラ・ガンディーがブータンを訪問した際のインド政府による公式記録映像「Prime Minister visits Bhutan」等を取り上げ、50~60年前のパロの様相を中心に、ブータンの「近代」の幕開けを紐解いてみたいと思います。

■ よく入手されましたね!最初にご覧になったときはどんな感じでしたか?
この記録映像は合計45分ほどのもので、もちろん白黒ですが画質は非常にきれいです。1958年9月というと、ちょうど中尾佐助先生がブータンを訪問していた時期と重なりますが、この当時のブータンをこれほどまでに鮮明に残した映像があることを私は知らなかったので、単純に驚きました。

■ 「1958年にネルー首相がブータンにやってきた」ことは、歴史上の大事件だったわけですよね。
ブータンにとってのネルー首相来訪は、日本にとっての黒船来航と同様、「太平の眠りを覚ます」大事件であったと言えると思います。

■ その頃のインドやブータンは、どういう状況だったのですか?
インドは1947年にイギリスから独立し、1949年8月8日にブータンと「インド・ブータン友好条約」を結びました。この条約によって「インドはブータンの内政に干渉しないこと」、「ブータンは外交をするうえでインドの指導を受けること」が定められましたが、当時のブータンの国家運営の原則は「まず自国の若者を教育し、それから近代化を」というものであり、外国への依存は避けられていました。

しかしインドにとっては、対中国を見据えた安全保障政策として、どうしてもブータンを味方に引き入れておく必要がありました。そこでネルー首相は、孤立主義政策を修正しインドの経済援助を受け入れるよう、第3代国王に強く促すために訪ブしたわけです。このときパロでは、インドとブータンを結ぶ自動車道路を建設することや、防衛の強化のためにインド軍をブータンに駐留させること等について両者の間で協議が行われました。

■ ブータンにとってネルー首相が来た意味、つまりそこから大きな力で近代化へと突き動かされていったと…
大国間の衝突への関与を可能な限り忌避したいこと、さらにおそらくは近代学校教育の普及が始まったばかりで近代化を実施するには早すぎるとの懸念から、第3代国王は即答を避けています。しかし、その年の第11回国会及び翌年の第12回国会において道路建設及び陸軍本部の設置が決議され、インドの全面的な後押しのもとで開発が実行に移されることになりました。

以降、「まず自国の若者を教育し、それから近代化を」という国家運営の原則は大きく転換し、1961年からは(100%インドの経済援助による)第1次5ヵ年計画も開始され、急ピッチで「近代」の幕が開かれていきます。1967年のパロを撮影したNHKの番組に挿入されている「好むと好まざるとにかかわらず、この秘境も、国際社会の中へ押し出されようとしている」というナレーションが、この時期のブータンの状況を端的に表しています。インドからの自動車道路が完成し、外国製品が一気に流入しはじめました。さらに各方面にインド人アドバイザーがつき、学校でも多くの外国人教員(多くはインド人)が教育にあたるようになりました。

■ 「ハ」のファンとしては、ネルー首相の旅路も注目したいところです
ネルー首相は9月16日にデリーから飛行機でバグドグラ空港に向かい、そのまま車でシッキムの首都ガントクまで行っています。その後ガントクからチベット領のヤートンへと歩を進め、19日にブータンに入国し、20日にハで1泊、21日から5日間パロに滞在しました。復路は行きと同じ道をたどり、10月2日にバグドグラ空港からデリーに飛び、合計17日間の旅を終えました。特に片道4泊5日のガントク=パロ間のトレッキングは、当時68歳のネルー首相にとってはかなりハードだったのではないでしょうか。ヤクランド会員の皆さんにとっては、まったく問題ないかもしれませんが…(笑)。

この「ネルー・ルート」は、中尾先生のたどった南ルートとはまったく違うものです。ブータンからシッキムに至る最短ルートで、自動車道路が発達する以前はかなりよく使われていました。他にチベットのパーリへ直接抜けるルートもありますが、どちらを使う場合もハを通る必要があり、ハは交通の要衝でした。当時のブータンでもっとも外国製品が溢れていたのはハだった、という話もあります。

■ 今のブータンとは大違い、びっくりお宝映像に乞うご期待!
この記録映像は、ネルー首相とインディラのゴ・キラ姿、ドルジ首相の皿踊り(?)、テス・ラ(ドルジ首相の奥さん)の洋装、当時2歳10ヵ月の皇太子(後の第4代国王)、ラヤッパの男性用衣装、今とは違うゴ・キラの着方、60年前のゾンや市場、農家の様子、ネルー首相からワンチュク家に送られた「近代的」なおみやげ、『秘境ブータン』にも登場するドクター・ペンバやドクター・カボー、ブータン=チベット間の国境の橋等、ブータンファンにはたまらないお宝の宝庫です。変わるもの、変わらぬもの、いろいろなものが見えてきます。12月18日のティータイムで、ぜひ一緒に鑑賞しましょう。

※ヤクランド『ヤクランド通信』第74号、10-12頁より転載。