日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS
ブータン初の国産長編映画「ガサ・ラマ・シンゲ」
日本ブータン友好協会理事 平山 雄大
2022年12月18日(日)に昭和女子大学にて開催された「BHUTAN DAY(ブータンデー)2022」にて、1989年に公開されたブータン初の国産長編映画『ガサ・ラマ・シンゲ』の鑑賞会を行いました。
【概要・制作背景】
同映画は実話をもとにした悲恋譚で、長く語り継がれてきた「ブータン版ロミオとジュリエット」の物語を、当時政府の通信部(Development Support Communication Division: DSCD)で働いていたウゲン・ワンディ氏とパロのボンデ農場で働いていたチミ・ドルジ氏が協働し映画化したものです。全編ゾンカの約78分の映画です。
ストーリーは、一言で表すと「ガサ出身の男性シンゲと、プナカのチャンユル村の女性ガレムの結ばれない恋」です。タイトルをより原語に忠実にカタカナ表記すると『ガサ・ラメイ・シンゲ』(Gasa Lamai Singye)で、意味は「ガサのシンゲ」ないし「ガサの人シンゲ」という感じでしょうか。タイトルからはシンゲが主人公だという印象を受けますが、ガレムも非常に重要な役回りで、「ロミオとジュリエット」同様、ダブル主人公と言えると思います。余談ですが、リメイクされ2016年に公開された映画のタイトルは『ガサのシンゲとチャンユルの娘ガレム』(Gasa Lamai Singye and Changyul Bhum Galem)となっています。
ガレムの生家とされる家は今もチャンユル村(プナカ・ゾンの近く)にありますが、崩壊の危機に晒されており、修復・保存の必要性が叫ばれています。この話題を取り上げた昨年6月のBBSニュースでは、1989年の映画の場面も紹介されていました。
同映画の監督は、インドのプネーで映画・映像制作を学び、その後ドキュメンタリーの世界に進出したウゲン・ワンディ氏です。片道2時間半かけて学校に通うトンサの少年を追った『Yonten Gi Kawa: Price of Knowledge』(1999年/邦題『学びへと続く道』)や、ティンプーからリンシまで5日間かけて手紙を運ぶ郵便局員を撮影した『Yi-Khel Gi Kawa: Price of Letter』(2004年/邦題『思いを運ぶ手紙』)等、彼が監督を務めたドキュメンタリー作品は日本国内のブータン関連イベントでたびたび上映されてきましたが、今回の『ガサ・ラマ・シンゲ』の上映は、私の知る限り少なくとも日本では初の試みでした。
映画制作は、ウゲン・ワンディ氏の一族から6万ヌルタムを、またボンデ農場から撮影機材一式を借りることによって実現したそうです。脚本はゾンカ版クエンセルの編集者だったゲム・ドルジ氏が担当し、1988年に撮影が開始されました。撮影チームを率いたチミ・ドルジ氏は、「出演者のほとんどが公務員だったので、それぞれの休暇を合わせ短期間で撮影することが難しかった」と当時の苦労を回想しています。すべてのシーンがプナカ・ゾン内、ガサ・ゾン内を含むロケ地で撮影されました。
【ストーリー】
映画は語り部のおじちゃんの物語紹介から始まります。物語のラストシーンは、亡くなってしまったガレムの荼毘の火にシンゲが飛び込み生涯を終える(その後輪廻転生を繰り返し最終的に結ばれる……というサイドストーリーもありますが、映画はそこまでは描いていません)というものなのですが、語り部は冒頭で思いっきりネタバレをし、「良い子の皆さんはマネしないように」というような注意を一言付け加えます。
ナレーションによると、ときは1841年、プナカ・ゾンにて国政を執り行う第38代デシ(摂政)に仕えるためにシンゲがガサからやって来ます。任官が許されたシンゲはゾンの前で開かれている市でガレムに出会い、すぐにデートの約束を取り付け、逢瀬を重ねます。毎回のデートの場所は主にモ・チュ(川)沿いです。
ガレムはいわゆる「評判の美少女」で、摂政もその噂を聞き及んでおり、第一秘書的な立ち位置のジンポンを通してガレムの両親に結婚を申し込みます。「良家に嫁がせられる!」と摂政との結婚に大賛成の両親はガレムを説得しようとしますが、密かにシンゲに想いを寄せるガレムは頑なに応じません。
両親が不在のある日、ガレムはシンゲを自宅に招き入れ一夜を共にします。シンゲ「ドアを開けたままじゃないか」、ガレム「あなたが来るから開けておいたのよ。カギ閉めた?」、シンゲ「うん」、ガレム「じゃあ寝ましょうか」。このスピーディな展開に、私はブータンらしさを強く感じました(笑)。
プナカ・ゾンを訪れたチャンユル村の村人から、摂政の求婚相手であるガレムがシンゲと結婚したがっていることを聞いたジンポン。「ガサのラマ(高僧)が人手を欲しがっているけれど、誰に行かせるべきか」との摂政からの相談に、「シンゲが帰省したがっているので、ついでにそちらにも行かせれば良い」と提案し、ガレムとシンゲを引き離そうと画策します。仕事なら仕方ない……と荷物を持って3ヵ月の予定でガサ出張に向かうシンゲ。それを泣きながら見送るガレム。ここで前半終了です。
後半。実はガレムはシンゲとの子どもを身籠っており、悪阻で苦しそうです。ガレムの父「おーい母さん、娘がちょっと調子悪そうなんだけど、どうしたかな」、ガレムの母「もしかして妊娠しているんじゃないかしら」。問い詰められたガレムは妊娠の事実を両親に伝えますが、そんな娘に両親はかなり厳しい言葉を投げかけます。そして、どうしてもお腹の子どもの父親の名前を明かさないガレムは、勘当され家を追い出されてしまいます。行く当てもなく、野宿をし日々やつれていくガレム……。
次の場面は、おそらくこの映画で最も有名なシーンである歌の掛け合いです。川の対岸にいる旅人に向かって、ガレムが歌います。「あなたはガサに行く人ではありませんか。どうか、私の「ガサ・ラマ・シンゲ」に早く帰ってきてと伝えてください。チャンユルのガレムにはもう帰る家がありません。体調も悪いです……」
それに対する旅人の返答。「私はガサには行かないけれども、途中のゴエンシャリまでは行く予定です。でも失望しないでください。私は予定を変更し必ずやガサまで行って、そのシンゲにあなたのメッセージを伝えましょう。どうか悲しまないで。「ガサ・ラマ・シンゲ」はきっと帰って来ます……」
自動車に乗ってガサまで会いに行く、もしくは携帯電話ですぐ連絡するという選択肢のない当時の状況下において、残念ながらガレムは川沿いで息絶えてしまいます。牛飼いの男の子が亡骸を見つけ、父親を呼びに一目散に走ります。一方、ガサ・ゾンで旅人からガレムの状況を聞いたシンゲは、高僧に暇を乞い急ぎプナカに向かいます。途中、ガレムの霊に出くわし胸騒ぎを覚えたシンゲはさらに歩みを早めます。
葬儀場の場面。(現世に未練を残したまま亡くなった人は、火葬の際になかなか火がつかないとの話がブータンにもあるはずですが)ガレムの亡骸にはなかなか火がつきません。煙だけが立ち上っています。
やっとのことでモチュ・ザム(橋)までたどり着いたシンゲですが、橋の上ですれ違った男性とのやり取りを通して、今まさにガレムの葬儀が執り行われていることを知りショックで倒れてしまいます。そして、やっとのことで葬儀場にたどりついたシンゲは、「私の人生の中には彼女しかいなかった。残念ながらこんなことになってしまった。2人は生きていても一緒、死んでも一緒。もう私は生きていけない。私も死にます」と周囲の人々に言い残し、荼毘の火に身を投じます。その瞬間、火は大きく燃え広がり……。
当日は、最初に私のほうから映画の概要及び制作背景を簡単に紹介し、観賞中に横から台詞の補足や状況の説明を入れさせていただきました。ゾンカをうまく翻訳できなかった箇所も多々あり、反省しています。鑑賞後は、映画の中に出てきたドマや食事、それぞれの役者の名演、インドのサティー(寡婦殉死)との関連に関して等、参加者の皆さまと意見交換をさせていただきました。
※日本ブータン友好協会『日本ブータン友好協会会報 ブータン』第157号、3-4頁より転載。