日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

近代学校教育の導入と発展の経緯

平山 雄大
早稲田大学教育・総合科学学術院教育総合研究所 助手

全3回に分けて、ブータンの近代学校教育(1回目の今回は近代学校教育の歴史、2回目と3回目はその現状と課題)について書かせていただきます。ブータンでは「学校」というと大きく「近代学校」と「僧院学校」(チベット仏教の僧侶の養成機関)の2つの系統が存在しますが、今回は基本的に前者のみを取り上げ、単に「学校」と言う場合は近代学校を指すことにします。

1. 【黎明期】 1910~1940年代

ブータンにおいて近代学校教育の萌芽が見られるのは、今から約100年前のことです。初代国王の提案でインドのカリンポンに46人の男子生徒が留学し、同時にハに学校が設立されたこと、ブムタンに皇太子(後の第2代国王)及びその側近となる者のための学校が設立されたことがその始まりとされています。ただしその詳細は不明な点が多く、各学校の生徒数や設立年、教育内容を特定させることは困難を極めます。私は、当初のハの学校はカリンポンの学校の休業期間中に留学生たちを本国に戻して講習を行うためのもの、ブムタンの学校は王族の季節移動(夏はブムタン、冬はトンサ)に伴って場所を変える移動式のものであったと推察していますが、詳細は依然としてよく分かっておりません。

写真1は、1933年に撮影されたハの学校の生徒(後列中央は先生)です。当時同校を訪れた英国軍人モリス(C. J. Morris)は、徒弟制度とも形容しうる、生徒と彼らの先輩(彼らが最終的に配属される役職に就く人々)との関係に大いに感銘を受け、「この点に関しては英領インドのどの学校よりも優れている」(注1)と感想を記しています。いずれにしろ、近代学校教育黎明期と位置づけられるこの時期に設立された上記の2校は、一般に開かれた学校ではなく少数精鋭のエリート教育の場であったと位置づけられます。

2. 【草創期】 1940~1950年代

(1) ネパール人移住者の学校

ブータンにおいて一般に開かれた学校が誕生するのは、第2代国王治世下の1940年代後半から第3代国王治世初期の1950年代にかけてのことです。上記の2校の次に学校が誕生しはじめたのは南部においてであったようです。1940年代後半以降、南部各県ではネパール人移住者によって多くの学校が作られており、それらには、①地域住民からの強い要望によって作られ私立学校として開校した、②比較的小さい寺子屋のような学校であった、③教授言語はヒンディー語もしくはネパール語であった、④教員の国籍は多様でインドやネパールからも教員を招聘していた、といった共通点を見出すことができます。

このとき南部において学校の設立に関わったうちのひとりに、後の通商大臣オム・プラダン(Om Pradhan)の父親(J. B. Pradhan)(写真2)が挙げられます。ネパール人移住者の学校は徐々に政府によって整備され、公立学校に組み込まれていきました。

(2) ブータン人の学校

一方で1950年代に入ると、ブータン人によるブータン人のための学校も各地に誕生しはじめます。ハ県では、後に初代首相となるジグメ・ドルジ(Jigme Palden Dorji)によって、旧来の学校が5年制もしくは6年制の初等教育を提供する男女共学の近代学校に生まれ変わります。約50人の第1期生は1951年に入学し1956年に卒業していますが、この卒業生が、一般に開かれた(ブータン人の)学校としては国内初の初等教育修了生であると認識されています。写真3は1954年に撮影された彼らで、最前列の女の子たちはブータン初の女子生徒と言えます。この時期各地に多くの学校が開校しましたが、それらは、①地域住民からの要望ではなく各地の地方行政官の主導のもと公立学校として作られた、②ネパール人移住者の学校と比較すると大規模なものが多かった、③基本的にヒンディー語を教授言語に採用していた、④ブータン人が教員を務めていた、といった特徴を有しています。

「地域住民からの要望ではなかった」という点が端的に示している通り、ブータン人の学校の導入は、自国の若者に教育を施し近代化を成し遂げたい政府による上からのものでした。当時、親は子供を学校に行かせることに対して常に消極的であり、学校の存在を歓迎しませんでした。親側と学校(政府)側の子供の取り合いに関しては面白いエピソードがたくさん残っています。教員らは村に赴き親を説得し、地方行政官はゾンに親を呼び出し説得し、ときには奇策を施して半強制的に子供を集め学校へと通わせました。

一般に開かれた学校に生まれ変わったハの学校も、当初は住民の理解が得られず全然生徒が集まらなかったようです。ジグメ・ドルジの苦悩が、1958年に同学校を訪れた中尾佐助の著作に記されています(注2)。

ドルジ家はハ・ゾンに小学校を建てた。白壁の4教室がハ・ゾンに新風を吹き込んだ。郡内の子供を集め、生徒には給食と1年1着の着物を与える約束をした。学費はもちろん無料である。しかし開校したものの、生徒の集まりは悪かった。進歩への道はいつも容易ではない。(筆者注:ジグメ・ドルジは)「わしがいくら努力しても生徒はなかなか集まらんのですよ」と首をふっていた。住民のほうはどうだろう。「サーブ、学校へ子供をやると人手が足りなくなりますのでね。いやじつをいえば学校を出ると、みんな役人になりたがって、インドへ出たがり、百姓ぐらしを嫌がるからですよ」ということだ。(中略)教育は青年に故郷の“退屈”を教えるものらしい。

「学校を卒業すると農業を嫌がり都会へ行ってしまう」という旨のこの住民の発言は示唆に富んでいると同時に普遍性を有しており、50年以上を経た現在にもそのまま通用します。現在の話はまた次回以降取り上げますが、とにかく、ジグメ・ドルジは生徒を集めるのに苦労しました。ハ県内はもちろんのこと他県に出張した際も積極的に生徒集めを行っていたようですが、芳しい成果は挙げられませんでした。

3. 【拡充期】 1960年代以降

(1) 1960年代~

ご存知の通り、インドの全面的な資金援助を受けて1961年より第1次5ヵ年計画が開始されますが、学校教育もそこから本格的な拡充が目指されていきます。第1次5ヵ年計画開始以前は国内には小学校しかありませんでしたが、小学校を増やすとともにそれ以上の教育段階の学校も設立し、教員不足に対応させるためインドからも積極的に教員を招聘するようになります。1963年には、カナダ人宣教師であったファーザー・マッキー(W. J. Mackey)も、ジグメ・ドルジの要請を受けブータンの教育開発を行うためにやって来ました。

1961年には言語文化学校、1965年にはティンプー・パブリック・スクール(現在のヤンチェンプーHSS)や技術学校(現在の科学技術カレッジ)、1968年にはカンルン・パブリック・スクール(現在のシェラブツェ・カレッジ)や教員養成校も作られ、国内での人材育成体制が徐々に整ってきます。写真4は1962年に撮影されたパロの小学校の教室、写真5は設立当初のカンルン・パブリック・スクールです。

この当時採用されていた教育制度は 6-2-2制であったようです。各学校の名称は、第6学年までを有するものが小学校(primary school)、第8学年までを有するものが中学校(junior high school)、第10学年までを有するものが高等学校(high school、後にcentral schoolに名称変更)です。ちなみに、1964年には教授言語が従来のヒンディー語から英語に切り替えられています。英語を採用した理由に関しては、「国際的な人材を育てるという国王の先見の明による」といった説明がよく成されますが、決してそれだけではなく、ゾンカを統一的な教授言語とすることの困難性やインド化への脅威もあったのではないかと推察されます。

1960年代後半以降の一時期、政府は「教育の質的向上」を確保するために「教育の量的拡大」を抑制するような政策も採っています。「各学年の生徒が8人以下の小学校高学年のクラスは閉鎖し、寄宿寮が整備されている中学校へと生徒を転校させる」(注3)、「生徒(出席者)が30人に満たない小学校30校を閉鎖する」(注4)といった取り組みがその頃の5ヵ年計画に散見されます。また、学校教育の拡充と伝統的価値観・文化の保護の背反性が当時から既に問題視されていたことも同計画から読み取ることができます。

(2) 1980年代~

1980年代のはじめには、国内に149の学校が存在し、約3万6,000人が就学していたと記録されています。ただし、最終学年まで進学する生徒は170人程度と少ないものでした。この時期に採用されていた教育制度は 5(7)-3-2制です。5年間の初等教育の前には1年目LKG(lower kindergarten)、2年目UKG(upper kindergarten)という2年間の準備教育がありました。

当時の県別学校数及び就学者数を確認すると、興味深い事実が浮かび上がってきます。南部各県に学校や就学者が集中しているのです。人口100人あたりの就学者数の割合は、首都を擁するティンプー県や近代学校発祥の地であるハ県を除いて、南部の県が他県を圧倒しています。この事実は、内陸部と比べ平地が多く学校に通いやすいという地理的特性による可能性も否定できませんが、南部に多く居住するネパール人移住者/ネパール系ブータン人の教育熱が、ブータン人のそれよりも高かったことの証左となっていると考えられます。先ほど取り上げたネパール人移住者の学校という土台があってこそ、南部における学校教育の拡充が進行したのだと考えることができるかもしれません。

1986年に教育制度が改訂された際に2年間の準備教育は1年間に短縮され、名前もPP(pre-primary)に改められました。さらに新カリキュラムが導入され、初等教育低学年の理科、社会科は統一され環境教育(environmental studies: EVS)科という新設科目が誕生しました。この環境教育科の存在をもってして「ブータンは環境教育先進国である」という言説をたまに見かけますが、それは少々論が飛躍していると感じます。日本の生活科と同様に体験的活動を重視している同教科は、決してその中で環境教育のみを取り扱っているわけではないからです。

当時の5ヵ年計画(第5次5ヵ年計画)には、教育政策の大きな目標のひとつに「国の豊かな文化的・精神的遺産を保護・促進する。また、教育を受けた人々がこれらの遺産から疎外されるのを防ぐ」(注5)というものがあり、学校教育の中で伝統的価値観・文化の保護を行っていこうという政府の意欲が垣間見られます。その後、この目標は教育政策の枠から飛び出し、開発全体の目標にまでなっています。すなわち、第6次5ヵ年計画の9つある全体目標の2番目に「国家アイデンティティの保護・促進」(注6)が掲げられ、以降ブータンは、他国との相違性を明確にして自国の独自性を保守することを戦略的に意図して開発を実行していきます。教育開発においても、伝統的なものと近代的なものの共存を巡る議論が加速し、価値教育(value education: VE)科の新設等の実践へと繋がっていきます。

以上、ざっとですがブータンの近代学校教育の歴史を追ってみました。次回は近年(2000年代~)の教育事情に話を移したいと思います。

  • (注1)Morris, C. J. (1935) “A Journey in Bhutan”, Geographical Journal, Vol.86 No.3, p.212.
  • (注2)中尾佐助(1959)『秘境ブータン』毎日新聞社、127-128頁。
  • (注3)RGoB (1966) Second Five Year Plan, Thimphu: RGoB, p.25.
  • (注4)Ministry of Development, RGoB (1972) Third Five Year Plan 1971-1976, Thimphu: RGoB, p.32.
  • (注5)Planning Commission, RGoB (1981) Fifth Five Year Plan 1981-1987 Main Document, Thimphu: RGoB, p.98.
  • (注6)Planning Commission, RGoB (1987) Sixth Five Year Plan 1987-92, Thimphu: RGoB, p.22.

※ヤクランド『ヤクランド通信』第56号、2-5頁より転載。