日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

語るなら南部も…

早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター助教 平山雄大

ブータンは、多様で複雑な文化を有する国です。「伝統的な民族衣装を着ている」、「チベット仏教を信仰している」、「日本人と顔がそっくりである」等といった説明がなされることが多いですが、それだけでは語れません。そもそも国語であるゾンカ(語)を日常的に使っている人は多数派ではありませんし、宗教もチベット仏教だけが信仰されているわけではありません。その多様性ゆえに、「国」としてのまとまりを形成するにあたって多方面への配慮がなされ、現在進行形で試行錯誤が続けられています。

インドの西ベンガル州やアッサム州と隣接しているサムツェ県、チュカ県、サルパン県をはじめとしたブータン南部地域には、ローツァンパ(Lhotshampa)と呼称されるネパール系ブータン人が多く居住しています。人口の4分の1程度を占める彼らの多くはヒンドゥー教徒で、ネパール語を話し(南部の学校では1989年までネパール語による授業も行われていました)、基本的にけっこう濃い顔立ちをしています。南部地域は標高の低い亜熱帯の土地柄やインド・ネパールとの物的・人的交流等も特徴的で、一般的に想像されるブータンとは一味違った自然・文化・歴史を数多く有しています。

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チラン県で商店を営むおばちゃんたち

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南部では、ゾウも大事な働き手

ネパール人のブータン南部地域への移住は19世紀末~20世紀初頭あたりからなされはじめました。当時の英領インドは、ダージリンやアッサムの茶園の労働力として主にネパール東部の住民を移住させ活用していましたが、彼らの中には、明確に確定されていなかったインド=ブータン国境を越え、無人地帯であった南部地域に入植する人々も存在しました。1933年に同地を訪れた英国軍人モリス(C. J. Morris)は、ネパール人移住者に対してブータン政府はいかなる干渉もしておらず、彼らは税金を納めさえすれば自由に生活ができると報告しています※1。彼らは1950年代初めまではサムツェ県やチラン県に留まっていましたが、1950年代に入ると拡散し出し、サルパン県やサムドゥプ・ジョンカル県等を含めた南部全域に広く居住するようになったと言われています。

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南部の町の様子 その1

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南部の町の様子 その2

今から約30年前、「ナショナル・アイデンティティの保護・促進」※2を全体目標のひとつに掲げた国家開発計画のもとで、ローツァンパは不利な立場に立たされ、不安定な社会状況の中多くの人々が難民として国外に流出する事態に発展しました。ここでは当時の詳細に触れることはしませんが、南部地域への理解なくしてはブータン全体への理解もなく、文化的にも歴史的にももっと注目されて然るべき場所だと言えると思います。

2016年2月に刊行された最新の『地球の歩き方 ブータン』では、南部地域の記述が厚くなり、巻頭特集ではマナス国立公園(シェムガン県南部国境地帯に位置する約1,000㎢の自然保護区)も取り上げられました。インフラ整備も進められており、今後、南部地域に立ち寄る旅行者は増えていくかもしれません。

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インドとブータンの国境ゲート

※1 Morris, C. J. (1935) “A Journey in Bhutan”, Geographical Journal, Vol.86 No.3, p.206.

※2 Planning Commission, Royal Government of Bhutan (RGoB) (1987) Sixth Five Year Plan 1987-92, Thimphu: RGoB, p.22.

WAVOCブータンコラム「助教 平山のブータンつれづれ(第9回)」より転載。
https://www.waseda.jp/inst/wavoc/news/2017/08/04/2880/