日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS
ブータンサロン―ブータンの今 変わりゆく人々の暮らし―
日本ブータン友好協会会員 須藤 伸
7月15日、JICA地球ひろばにて、ブータンサロンが開催されました。私は、2021年10月からJICAブータン事務所の企画調査員としてティンプーに赴任していますが、この度の一時帰国に当たりブータンサロンにお招きいただき、「ブータンの今-変わりゆく人々の暮らし」と題しまして、コロナ後のブータン社会の変容についてお話をさせていただきました。このブータンサロンでの講話の内容を簡単に報告させていただきます。
冒頭、ブータンのコロナ後の風景について、いくつかの写真を紹介しました。内容は主に次のとおりです。昨年9月23日の観光再開時のDruk Airの機内の様子に加え、Bhutan Believeという新たなキャッチコピーとともに改装され、観光客を迎え入れる準備が整ったパロ空港。ティンプーやパロでのツェチュに集まる多くの人々の様子から、コロナ禍からようやく日常に戻ったことを実感したこと。王室のプロジェクトによってカジャ・トムと呼ばれる新しい野菜市場がティンプー、パロ、プンツォリン、プナカ等各地にオープンしていること。CSIマーケットにて出会う新たなブータン産品の数々。(ブータンのお土産といえば、かつてはブムタン産はちみつ、レモングラスオイルのスプレー、ツェリンマと呼ばれるベニバナのお茶くらいしかなかった時代を思い出しますが、今ではだいぶお土産の種類も増えました。)こうした写真を通じて、ブータンの新たな姿を紹介しました。
続いて、今年の5月に結果が公表されたGNH(Gross National Happiness;国民総幸福量)調査の結果から見える人々の暮らしの変化を紹介しました。GNH調査(2022年)の結果、GNH指標は0.781と測定され、2015年の前回調査から3.3%上昇しました。他方で、これまでの2000年、2015年、2022年の調査結果から、幸福感の都市・農村部の差(都市部が高く、農村部が低い)に加え、幸福感の男女間の差(男性が高く、女性が低い)といった格差とその傾向が明らかになってきたことを紹介しました。(GNH調査結果の詳細は、別途投稿させていただいた記事「「国民総幸福量(GNH)調査2022」結果発表」をご参照ください。)
また、前回に比べ、生活水準、教育、コミュニティの活力に関する領域が向上し、特に生活水準(住環境や家庭当たりの所得)の向上が今回のGNH指標を上昇の主たる要因になっています。特にブータンは過去20年に渡り、年平均7%を超えるGDP成長を経験し、今年中に後発開発途上国(LDC: Least Developed Countries)のカテゴリーから卒業予定です。こうした経済成長により貧困率も大幅に減少し、平均寿命も20年の間に10歳以上伸びる等、経済面だけではなく、社会的な指標も大きく改善しつつあります。
こうした成長の恩恵は、統計データからだけではなく、私がこれまでにブータンで実際にお会いした人々の認識・実感からも把握することができました。例えば、タシガン県メラ村に住むNgadenさん(女性)は、道路インフラの整備により生活が改善した様子を次のように話しました。「私が子供の頃には、交易のためにカリン村まで何日も山道を歩いていきました。しかし今では、車で半日で到着します。年々生活が楽になっていきます。私が娘の世代に生まれていたら、どんなに生活が楽だったことでしょう。」加えて、ティンプー県ゲネカ郡に住むTshering Yangzomさん(34歳/女性)も生活水準の向上を実感している一人であり、次のように話しました。「最近、村までの道路が舗装され、ティンプー市内まで2時間もかかっていた時間が半分に減りました。トラックや農機も容易に村まで持ち込めるようになり、ジャガイモの作付けや輸送が格段に楽になりました。」
続いて、若者の海外流出や公務員の離職に焦点を当てて、ブータンの人々の暮らしや考え方の変化を紹介しました。こうした若者の海外移住者はコロナ明けから急増し、近年、深刻な社会問題になっています。2023年5月20日付のKuensel紙によると、昨年1年間(2022年)だけで、約1万7千人もの人々が海外に移住している状況であり、これはブムタン県の人口と同程度の人数であるようです。さらに、今年の1月、2月でそれぞれ5,000人を超す人々がブータンから国外に移住する等、今年に入ってからは特にこうした傾向が顕著になってきています。また、2015年以降、移住者の総数は6万5千人を超える可能性がある点も指摘されていました。最近は公務員の離職者数も増加しつつあり、2023年1月から3月までの3か月間だけで1,000人を超える公務員が退職しています。2019年に公開された映画「ブータン 山の教室」では、豪州で歌手になることを夢見る教師ウゲンが主人公ですが、現在でもウゲンのように海外(特に豪州)を夢見るブータン人がまだまだ数多くいるということを示しています。
こうした背景には、より高い収入、経済的機会、経済的安定、安全な将来、高い生活水準、より良い教育などといった海外に引き寄せられる要因(プル要因)があることに加え、ブータン国内の雇用不安、キャリアアップの機会の欠如、劣悪な労働環境、人員削減による業務負担、改革の悪影響、家族・友人からの移住圧力、生活費の高騰等というブータンから押し出す要因(プッシュ要因)が複合的に影響して、若者の海外進出を加速させている状況にあるとされています。同様に、28.6%(2022年)という高い若年失業率に加え、近年の物価・家賃の上昇などにより、必ずしも楽ではないブータンでの暮らしも影響しているものと考えています。また、公務員の離職については、公務員改革による強い風当たりや、離職者の増加による一人当たりの業務量の増加により負のスパイラルに陥っている状況です。私の今回の一時帰国の際にも、パロ空港には海外移住する若者を見送るため、多くの家族や親戚、友人等が総出で見送りに来ており、現在でも海外移住の状況が続いていることを実感しました。
最後に、講話のまとめとして、ブータンの人々の暮らしだけではなく、人々の考え方も大きく変化しつつあるという点をお話しました。近年のブータン社会を俯瞰すると、高い経済成長により人々の暮らしぶりや生活環境は総じて大きく向上しています。他方で、若年失業率の増加や公務員改革を背景に、雇用の不安定感や将来に対する不確実性も増しているように感じています。これによりブータンでは将来への長期計画や希望を持ちにくい社会になりつつあり、公務員の離職や若者の海外移住者が急激につながっています。ブータンでは、物価高の影響も深刻であり、特にコロナ後には貯蓄をする人の割合も上がったと言われていますが、これまでは政府に大きく頼ってきたブータンの人々も、コロナを機に自分の暮らしは自分で守るという意識が強まったように思えます。ブータンからの移民の63%が移住先の国での永住権取得を希望しているという点も最近の移住者の特徴です。かつてブータンの人々は留学や出稼ぎに行っても必ず母国に戻ると言われていましたが、これまでのように国のための留学・移住といった時代ではないのかもしれません。
このように、ブータンにおいては、人々の暮らしだけではなく、人々の考え方も含めて大きく変化しつつあるように感じています。今回はブータンの人々の暮らしや考え方の変化をGNH調査や最近の海外移住の動向からお伝えしましたが、こうした傾向からブータンでは経済面のみならず、文化の促進や心理的な安定などを含め、GNHの基本理念に立ち返ったバランスの取れた改革・発展の必要性があることを指摘し、話を締めくくりました。また、講和の後には、約1時間に及ぶ活発な質疑応答が行われ、今回のブータンサロンを終了いたしました。今回ご参加いただいた会員の皆様には感謝申し上げたいと思います。
※日本ブータン友好協会『日本ブータン友好協会会報 ブータン』第159号、4-5頁より転載。