日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

ドルジ家からワンチュク家へ ―アジ・ケサンのカリンポン、カルカッタ、ロンドン、ハ、そしてパロ―

平山 雄大
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター講師

「アジ・ケサン」と聞いて、皆さんは最初に何をイメージされるでしょうか?

多くのかたは、御年88歳の太皇太后ケサン・チョデン・ワンチュク(現国王のお祖母さま)のお顔をまず思い浮かべられるのではないでしょうか。また、中尾佐助先生が『秘境ブータン』の中で「日本人ならだれでも近親にこんな感じの娘さんがいたら親類中から愛されるような人」と評した王妃(当時)―1957年秋に中尾先生が京都で接触し、先生の翌年のブータン訪問の足掛かりを作った―を思い出すかたもいらっしゃると思います。詳しいかたは、「アジ・タシの妹さんの!」、「ドルジ首相(初代首相)の妹さんの!」とおっしゃるかもしれません。また、「あの西欧に留学した初めてのブータン人の!」と小粋な反応をされるかたもいらっしゃるかもしれません。

もし中に熱狂的マニア(?)のかたがいらっしゃったら、「ああ、1957年11月9日、東京駅発の特急列車つばめ(当時東京=大阪間片道7時間30分)内の食堂車で偶然フランス人哲学者・劇作家のガブリエル・マルセルと鉢合わせて、「ガブリエル・マルセル先生じゃありませんか。私は数年前に、オックスフォードで、先生の講義を伺いました」と声をかけて昔話に花を咲かせた、あのアジ・ケサンね!」と、貴重な逸話を紹介してくださるかもしれません(笑)。

9月1日(土)のブータン・ティータイムでは、そんなアジ・ケサンが「アジ」(注:主にロイヤル・ファミリー=ワンチュク家の女性に対する尊称です)になる前、つまり第3代国王妃になるまでの独身時代に注目します。当時の写真、映像、史資料をもとに幼少期~20代前半の彼女と彼女のゆかりの地をたどりながら、近代化前夜のブータン(1930~1950年代)に思いを馳せてみたいと思います。

アジ・ケサンは、1930年5月21日にカリンポン(インド・西ベンガル州)のドルジ家の居館「ブータン・ハウス」で生まれました。お父さんは第2代国王ジグメ・ワンチュク(在位1926~1952年)の右腕であるドルジ家当主(当時)ソナム・トプゲ・ドルジ、お母さんはシッキムの第11代国王タシ・ナムゲル(在位1914年~1963年)の妹ラニー・チュニー・ワンモです。

アジ・ケサンはブータンとシッキムのハーフで、特に幼少期は、文化的にも地理的にもシッキムとの繋がりのほうが圧倒的に強かったようです(むしろ、ブータンとの繋がりはほとんどなかったと言えると思います)。ブータン・ハウスはカリンポンにおける迎賓館のような役割を有しており、近隣諸国はもちろんのこと、ヨーロッパ各国からも名士や学者がひっきりなしに訪れるところでした。そんな国際色豊かな環境で彼女は育ちました。

アジ・ケサンは5歳からカリンポンのセント・ジョセフ・コンベント(St. Joseph’s Convent、1926年に設立されたカトリック系の女子学校)に通い、その後カルカッタのロレット・カレッジ(Loreto College、1912年に設立されたカトリック系の女子大学)に進学しましたが、1948年、18歳のときに、家族ぐるみの付き合いをしていたイギリス人の元シッキム政務官バーシル・グールドの推薦でロンドンへと留学します(注:当時の彼女に「ブータン人」としてのアイデンティティがどこまであったかは正直分かりませんが、これをもって「西欧に留学した初めてのブータン人」と言われています)。

「いつどこに留学したのか」、「留学先で何をしていたのか」といった彼女のイギリス留学を巡る諸相に関しては、共通の見解があまりありません。それを知りたい私はロンドンの英連邦関係省やブリティッシュ・カウンシル、デリーやカルカッタの高等弁務官事務所がやり取りした書簡や電報等の分析を試みていますが、その結果、

  • 留学先は、ロンドン・ケンジントンにあったハウス・オブ・シティズンシップ(The House of Citizenship)というフィニッシング・スクール―主に良家の未婚女性に、社交界で必要な文化的教養、マナー、プロトコル、料理、家事等を教える学校―であった
  • ドルジ家は、ブータンが今後大きく変化し外に開かれていくことを予感して彼女を留学させた
  • 兄であるドルジ首相が彼女のパスポート取得のために奔走した
  • 英国海外航空の飛行艇「サンドリンガム号」に乗り、1948年9月20日にイギリスに到着した
  • 留学期間は約1年であった

といった事実が徐々に分かってきました。当時のブータン宮廷は、国の近代化を担う人材を育成するためにインド北部・東部に位置する医学学校や教員養成校をはじめとした高等教育機関に学生を派遣していましたが、彼女の留学はそれとは一線を画し、花嫁(=次期国王妃)修業としての性格が強いものだったようです。

そして1951年10月5日、アジ・ケサンは皇太子ジグメ・ドルジ・ワンチュク(後の第3代国王、在位1952~1972年)と結婚しました。ドルジ家の領地でありインド・シッキム・チベットとの窓口であったハからの嫁入りというかたちが採られ、盛大な結婚式がパロのウゲン・ぺルリ・パレスにて行われました。この時の様子は彼女の留学時代の「ご学友」として知られ、結婚式に賓客として招かれたアメリカ人企業家バート・トッドによって記録され、『ナショナルジオグラフィック』誌に発表されています。

ブータンが国際的な認知を得ていく中で、また国際的な支援を受け入れていく中でのその後の彼女の活躍は、皆さんご存知の通りです。

9月1日(土)のブータン・ティータイムの前段階として、「アジ」になる前のアジ・ケサンについてざっくりと紹介させていただきました。地理的な閉鎖性を有していた当時のブータンとは対照的な国際都市カリンポンで生まれ育ち、イギリスにも留学していたアジ・ケサンに注目しながらブータンに思いを馳せるという試みは、実はブータンを外から捉え直す試みです。もしかしたら、新しい何かが見えてくるかもしれません。よろしければぜひお越しください。

※写真の出典:Punnopatham, Chotiwat & Rajabhandarak, Chongmas (design and layout) (2017) The Heart of Sacred Kingdom: A Lifetime of Service to the People and the Kingdom of Bhutan, Bangkok: Gatshel Publishing Company、Stewart, Natalie H. & Todd, Susie & Stewart, Frances Todd / The National Steering Committee for the Coronation, Ministry of Home and Culture (eds.) (2008) Class of ’56, Thimphu: Voluntary Artists’ Studio, Thimphu (VAST) 等。

※ヤクランド『ヤクランド通信』第84号、6-9頁より転載。