日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

第9回ブータン勉強会

2013年12月15日(日)、JICA市ヶ谷ビルにて第9回ブータン勉強会を開催いたしました。

※本勉強会は、日本ブータン友好協会「第2回ブータンシンポジウム」の分科会として開催されました。

概要

1. 日時

2013年12月15日(土) 10:00~12:00

2. 場所

JICA市ヶ谷ビル セミナールーム202A、202B、国際会議場
〒162-8433 東京都新宿区市谷本村町10-5

3. 発表題目及び発表者

セッションA  (セミナールーム202A)
        「ゾンカ語日本語表記ガイドライン」
        高橋 洋(『地球の歩き方 ブータン』執筆)

セッションB  (セミナールーム202B)
        「ブータンにおける民主化と情報化」
        藤原 整(早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程)

セッションC  (国際会議場)
        「1930年代前半のブータン社会―シッキム及びチベットとの比較を通して―」
        平山 雄大(早稲田大学教育総合研究所助手)

発表要旨

【発表要旨①】「ゾンカ語日本語表記ガイドライン」高橋 洋

従来のブータン関連情報が、限られた関係者を通じて発信されることが多かったこともあり問題が表面化しなかったが、ブータンの国語である「ゾンカ」の日本語表記には慣用が確立されておらず、同じ人物、地名などの表記にメディア、筆者によって大きな揺れがあることが以前から指摘されている。インターネットを通じて、多くのブータン情報がリアルタイムで入手できる状況となり、また、国王来日以来、一般の日本人がメディアを通じてブータン情報に触れる機会が増えているため、この問題はさらに深刻なものとなりつつある。

外国語の日本語表記のあるべき姿については、利便性を重視する立場、実際の現地発音との整合性など正確さを重視する立場など、両立が難しいさまざまな立場の違いがある。他国の言語の日本語カタカナ表記についても、必ずしも理想的な解決策が採用されているわけではない。とはいえ、一定の合理的な規範がないことがブータン情報を扱う上での実務的な障害となりつつあるのも事実であり、ここでは、その将来的なリスクを最小限にとどめるための簡便かつ汎用性の高いルールを検討する。

ゾンカの日本語表記による揺れが大きい理由は大きくわけて2種類ある。1つはゾンカおよびその表記ルールに関する無理解からくる錯誤によるものだが、もう1つはゾンカそのものの特性に由来する。後者の具体例としては、ゾンカの文語が20世紀後半に政府によって開発が進められた歴史の新しい言語であり、表記基準を含めて多くの部分で未整備の部分があること、その結果、日本語表記のみならず、ブータン人自身によるゾンカのローマ字表記に一定の基準が存在せず、大きな揺れがあることなどが挙げられる。また、ゾンカ口語が現代チベット語の方言に近い位置づけであるのに対して、ゾンカ文語は古典チベット語文語をベースとして規定されていることに起因するいくつかの問題も挙げることができるだろう。

今回のワークショップでは、実用的な最低基準としての日本語表記ルールについて、幅広い立場からの意見を集めると同時に、「なぜ、このような表記の揺れが生じるか」というケーススタディーを通して、ゾンカと、その置かれている社会的状況への理解を深めたい。

【発表要旨②】「ブータンにおける民主化と情報化」藤原 整

2013年7月、ブータン王国で史上2度目の国民議会(National Assembly: NA)総選挙が実施された。この選挙は、実質的に「現政権の政策を評価して投票する」初めての選挙、であった。本論の狙いは、議会解散から総選挙までの間のメディア報道分析、インターネット(主にソーシャルメディア)上での選挙関連情報の流通状況調査、および、総選挙実施前後のフィールド調査を通じて、ブータンにおける「民主化と情報化の成果」を概観することである。

一般に、国民が政策を評価する際に、当該国のマスメディアが果たす役割が小さくないことは言うまでもない。しかしながら、1999年にテレビが解禁してからわずか14年、また、政府官報としてスタートした新聞のKuensel紙が民営化してから20年余りと、ブータンのマスメディアは、まだ産声をあげたばかりである。今回、選挙という事例を通して、ブータンにおけるメディアと民主化が、今後どのような互恵関係を築いていくのだろうか。

また、近年、日本をはじめとした先進諸国においては、「ネット選挙」の解禁に関する議論が展開されている。津田(2012)は、ソーシャルメディアの誕生によって、ウェブを通して国民が直接的に政治を動かすことが可能になった、と力説する。一方で、ブータンにおいては、そもそも、民主化された時点でインターネット環境が存在しており、「ネット選挙」を解禁するか否かという議論を飛び越えて、どのようにネットを選挙に活用していくべきか、という議論が先行していることが特徴的である。2012年には、ブータン選挙管理委員会(Election Commission of Bhutan: ECB)が、ソーシャルメディア利用規則(ECB Social Media Rules and Regulations)を定め、いち早く、選挙におけるソーシャルメディアの役割を規定している。この点に着目し、ブータンが、前時代的なしがらみに囚われることなく、インターネットを最大限に活用した選挙戦を展開し得る可能性について言及する。

【発表要旨③】「1930年代前半のブータン社会―シッキム及びチベットとの比較を通して―」平山 雄大

中尾佐助が日本人としては初めて公式にブータンを訪問し、植物調査を実施したのは1958年のことでした。また、東郷文彦・いせ夫妻が完成直後の自動車道路を通ってパロ・ティンプー・ハに赴いたのは1962年(及び1963年)のことでありました。

中尾の記した『秘境ブータン』、東郷の記した『ヒマラヤの王国 ブータン』、その他小方全弘『ブータン素描』『ブータン感傷旅行』『続ブータン感傷旅行』、桑原武夫編『ブータン横断紀行』、後藤多聞『遥かなるブータン』等、日本ブータン友好協会の偉大な先輩がたによる著書は、現在もブータンに関わる者にとって必読の書であり続けています。これらの旅行記を筆頭に、1950年代以降のブータンについては写真や映像も一定数存在し、国会議事録(1953年~)、5ヵ年計画(1961年~)、新聞「クエンセル」(1967年~)等を通してもそれぞれの時期の社会状況に思いを馳せることが可能です。しかし一方で、1950年代以前=「近代化の父」第3代国王治世以前のブータンに関しては、同国をフィールドにする研究者、さらにはブータン人であっても多くを知らず、細部を想像したくてもなかなかできないのが実状です。

本発表は1930年代前半のブータンに着目し、1933年から亡くなる1935年まで英領インドのシッキム政務官を務めたフレデリック・ウィリアムソンが残した貴重な写真及び映像(ケンブリッジ大学考古学・人類学博物館所蔵、映像はデジタル・ヒマラヤ・プロジェクトによって2003年にデジタル化)、その妻マーガレット・ウィリアムソンが記したMemories of a Political Officer’s Wife in Tibet, Sikkim and Bhutan等をもとに、第2代国王の治世であった当時のブータン社会の諸相を読み解くことを目的としています。その際、近隣のシッキム及びチベットにも視野を広げ、それらとの比較を通して、1930年代前半のブータンの社会状況を客観的に考察することを試みます。

映像の中で主に取り上げるのは、ウィリアムソン夫妻の1933年の旅(シッキム⇒ブータン⇒チベット⇒シッキム)及び1934年の旅(シッキム⇒チベット⇒ブータン⇒シッキム)を記録したもの、1934年末から1935年初めにかけての第2代国王のインド(カルカッタ)・シッキム(ガントク)訪問時のものです。JICA市ヶ谷ビル国際会議場の大スクリーンで映像を鑑賞しながら、できうる限り、80年前のブータンに迫ってみたいと思います。