日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS
NEW!ハってどんなところ?―インド、シッキムとの関連から―
平山 雄大
(お茶の水女子大学グローバル協力センター講師)
1. ハとは
ヤクランド会員の皆さまにとっては周知の事実ですが、ブータン西部に位置するハは、ティンプーやパロから片道3時間ほどで行くことができる長閑な場所です。中国のチベット自治区やインドのシッキム州(これも皆さまご存じの通りですが、シッキム州は1975年まではシッキム王国でした)と接しており、2001年までは外国人旅行者の入域が制限されていました。ブータン軍が駐留しているダムタンという場所から先には現在も行くことができませんが、「アクセスのよい田舎」のひとつとして、ハの町を訪れる旅行者は一定数います。ホームステイの受け入れをしている農家も多いですし、郊外には古民家を改装したおしゃれなホテルもあります。パロから日帰りで訪れたり、ハに向かう途中にあるチェレ・ラ(峠)にだけ足を延ばす旅行者もいます。
ハは自動車道路の終点なので「どん詰まり」のイメージがありますが、インドとブータンが自動車道路で結ばれる1960年代以前は、チベットやシッキム王国、そしてインドに繋がる西の玄関口として栄え、ブータンで最もモノ(外国製品)が溢れる場所だったとも伝えられるハイカラな場所でした。交通の要衝だったため、20世紀前半にはイギリス人のシッキム政務官(シッキム王国の首都ガントクに駐在し、シッキム、チベット、ブータンを巡る外交・情報収集を担っていた英領インド政府の役人)をはじめとした欧米人もハを訪れており、同地で撮影された写真や映像が数多く残っています。2026年1月10日(土)に滝野川会館で開催されたブータン・ティータイムでは、シッキム政務官のフレデリック・ウィリアムソン(在任:1933~1935年)とアーサー・ジョン・ホプキンソン(在任:1945~1948年)が残した映像を視聴して、体操着姿の少年たちやボクシング、サッカー、そして運動会(?)に興じる人々の姿を通して、1930~1940年代のハイカラなハに思いを馳せました。
ちなみに、私たちが「ハ」と呼ぶ際にイメージするのは、基本的には町があるハ県北部です。アモ・チュ(川)が流れているハ県南部は、その「アクセスのよい田舎」とは正反対で、南にあるサムツェ県からも北にあるハ県北部からも訪れるのが困難な「陸の孤島」でした。しかし近年道路状況が改善され、その認識が改められています。
例えば、ハ県南部にはロンツェ・ネ(「ネ」は聖地を指します)という高僧グル・パドマサンババとその妃イシェ・ツォゲルの聖なる住処・瞑想地だという言い伝えが残る洞窟がありますが、道路が整備された結果、頑張って早起きし朝早く出発すればティンプーからも日帰りで訪れることができるようになり、人気の巡礼・観光スポットになっています。ロンツェ・ネにはグル・パドマサンババの足跡や馬の鞍、観音菩薩の玉座、悪魔の肋骨と心臓……等数多くの聖跡があり、洞窟の奥に進むにつれ狭く険しくなっていきます。洞窟内には数多くの地下道があると言われており、そのうちのひとつはシッキムの「ネ」に繋がっていると信じられています。
2. インド、シッキムからハへの道
インド、シッキムから西の玄関口のハまでの陸路ルートが記録されている代表的な映像に、インド初代首相ジャワハルラール・ネルーの1958年9月のブータン訪問を記録したインド政府公式記録映像『Prime Minister Visits Bhutan』があります。このとき、ネルー首相は娘のインディラ・ガンディー(後のインド第5代、第8代首相)を伴って、デリーからバグドグラまで飛行機、バグドグラからシッキム王国の首都ガントクまで車で移動した後、そこから中国(チベット自治区)のチュンビ渓谷に抜け、チュンビ渓谷にあるヤートンという町を経由してブータンに歩いて入国しました。そして、帰りは同じルートを通ってデリーに戻りました。ブータン滞在は9月19日から27日までの9泊10日で、うち5泊は最終目的地でもあったパロですが、往路・復路ともにハで1泊、さらに国境近くのシャリタンという場所で1泊しています。
公式記録映像は約45分にまとめられており、冒頭3分の1(約15分)がハまでの行程となっています。ブータン・ティータイムでは、この記録映像と、さらに記録写真を通してネルー首相の陸路入国の様子を確認しました。シッキムやブータンのロイヤルファミリー、ブータン初代首相ジグメ・パルデン・ドルジ(ドルジ家3代目)等が登場するこの映像や写真はそれだけでも大変貴重ですが、当時の陸路ルートを知るうえでも第一級の資料と言えると思います。飛行機と車から、馬とヤクに乗り換えて移動を続けるネルー首相は非常にパワフルで、そこから、対中国を見据えた安全保障政策として、どうしてもブータンをインドの味方に引き入れるんだ!という強い熱意を感じます。「インドからブータンの首都まで自動車道路を繋げろ」、「インド軍をブータン国内に駐留させろ」、「インドの経済援助を受け入れろ」というネルー首相からの提案をブータンは最終的に受け入れ、100%インドの経済援助による第1次5ヵ年計画が1961年からはじまり、近代化が加速していきます。それに伴いハは玄関口としての役割を終え、ハイカラさを失っていきます。
3. ハの風景(サムツェからハへ)
前述の通り近年ハの道路状況が改善され、ハ県内の移動、さらに南にあるサムツェ県との往来がしやすくなり、人やモノの移動にも新たな動きが生じています。インドから(プンツォリンから)陸路でブータンに入国しパロを経由せずにハを目指す、もしくは逆に、ハから直接インドに抜けるということが可能になり、この道は旅行者にとっても需要があるかもしれません。
具体的に見てみましょう。プンツォリンからサムツェの町までは約60kmありますが、ちょうどその中間あたりにヨゼルガン(ウォゼルガン)という場所があり、そこからハ県に向けて北上する道が延びています。
その先にある最初の町はドロカで、さらに少し進むとデンチュカというところがあります。このあたりは稲作地帯で、1933年にこの地を訪れたイギリスの軍人チャールズ・ジョン・モリスも、壮大な棚田の写真を何枚も残しています。ちなみに、モリスの旅の主目的はネパール人のブータン入植状況調査で、ドロカは「ネパール人集落の本拠」であり「人口の多くはライ族」である一方、デンチュカは「リンブー族で占められている」こと、「ネパール人の他に、この地方には多くのレプチャ族がおり、その一部はクリスチャンである」こと、「ドヤと自称するごく少数の部族もある」こと等を報告しています。(余談ですが、このモリスはサムツェから北上しセレ・ラ(峠)を越えてハを訪れ、さらにパロでお祭りを見学した後、ハから前述のネルー首相の辿ったルートと同じルートでインドに戻っています。)
ハ県内に入り、聖地ロンツェ・ネがあるガキリン郡からさらに北上すると、自動車道路の先には標高3,750mのテゴ・ラ(峠)が控えています。ハ県南部は比較的標高が低く稲作も盛んで、「標高が高くて稲作ができない」と説明されることの多いハ県北部とはまた違った景色が広がっていますが、テゴ・ラを越えると一気に私たちがイメージする「ハ」の風景に変わります。冬のテゴ・ラは雪で通行不能になることも多々あるようです。私が訪れた2025年2月も峠は雪に覆われており、本当にドキドキしながら車を進ませました。
今回久保さんから「カリンポンの次はハについて話して」とリクエストをいただき、改めて関連映像や写真を整理し、新たな発見がありました。どうもありがとうございました。掲載写真はすべて、ブータン・ティータイム用に用意した資料のスライドです。
※ヤクランド『ヤクランド通信』第131号、2-5頁より転載。