日本におけるブータン研究の基盤形成を目指して
Japan Institute for Bhutan Studies: JIBS

NEW!カリンポンってどんなところ?―ブータンとの関連から―

平山 雄大
(お茶の水女子大学グローバル協力センター講師)

1. カリンポンとは

カリンポンは、インドの西ベンガル州カリンポン県にある町です。すぐ近くには紅茶ブランドの名前でおなじみのダージリンがあります。シッキム州の州都ガントク(かつてのシッキム王国の首都)やブータンのサムツェ県にあるテンドゥ(私の知る限り、カリンポンから一番近いブータン国内の町です)からは、直線距離で40キロほどです。

そもそもカリンポンは1865年まではブータン領でした。「ダリムコット」と呼ばれていた現在のカリンポン一帯は1700年ごろからブータンの支配下にあり、その状況は、1865年11月11日にイギリスとブータンの間に締結されたシンチュラ条約で、ブータンがダリムコットを含む南部の国土を失うまで続きました。カリンポンはその後英領インドとチベットとの交易の拠点として栄え、ダージリンに代わる高地リゾートとして開拓されると同時に、スコットランド人宣教師らによる学校の設立が行われていきました。

20世紀に入ってからも国際色豊かなハイカラな町として発展していきますが、1962年のチベットとの交易停止によってカリンポンの経済発展は停滞します。カリンポン県の公式ウェブサイトによると、県の人口は25万1,642人、町の人口は4万9,403人(2011年国勢調査)とのことです。

2. ブータンからカリンポンへの道

ブータン国内に自動車道路ができあがる1960年代以前、ブータンからカリンポンへ向かう主要な手段は「ハから徒歩」でした(ちなみに、カリンポンと同じように、チベットとブータンとの交易停止によってハの経済発展も停滞しました)。今は、プンツォリンから国境ターミナルを越えてインド側の町ジャイガオンに出て、そこから長距離バスで向かうのが一般的です。私は2014年夏にカリンポンからブータンに向かったことがありましたので、ブータン・ティータイムではそのとき撮影した写真を用いて、長距離バスのチケット売り場や道路の様子、ティスタ川を越えるコロネーション・ブリッジ等を紹介させていただきました。コロネーション・ブリッジを越えてしばらくすると、標高1,200~1,300メートルほどのカリンポンの町に到着します。

3. ドルジ家とブータン・ハウス

カリンポンの町の中心地から北東に向かって1時間ほど歩くと、ブータン・ハウスにたどり着きます。ブータン・ハウスは一言で説明すると「ドルジ家の家」で、1960年代まで、ブータンの在外公館かつ迎賓館のような役割を果たしていたところです。当時ブータン・ハウスには、近隣諸国はもちろんのことヨーロッパ各国からも名士や学者がひっきりなしに訪れていました。1958年には中尾佐助先生もブータン入国前に滞在しており、そのときのブータン・ハウスやカリンポンの様子が著書『秘境ブータン』に記されています。

ドルジ家は、カリンポンを拠点にチベットとの交易ビジネスで財を成した一族です。初代ウゲン・ドルジは19世紀末から20世紀はじめにかけてブータンのウゲン・ワンチュク(トンサ・ペンロップ)とイギリスの仲介役を務め、その後ウゲン・ワンチュクが1907年に初代国王となった後もその右腕として活躍しました。ウゲン・ドルジは、パロ・ペンロップの領地であったハを初代国王から拝領し、ブータン国内ではハを拠点に交易・外交を担いました。また1912年にはチベットから亡命してきたダライ・ラマ13世をカリンポンで助け、同時期からブータン人の教育・留学(カリンポン留学)にも尽力しました。余談ですが、「ゴにハイソックス・革靴」という今に続くブータン男性の正装スタイルをブータンに持ち込んだのは、ハイカラな町カリンポンからおしゃれのセンスに関しても多大な影響を受けていたであろう彼だと思います。

ドルジ家は2代ソナム・トプゲ・ドルジが2代国王ジグメ・ワンチュクを助け、その後3代ジグメ・パルデン・ドルジ(以下ドルジ首相)が3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクを助け、さらにドルジ首相の妹ケサン・チョデン・ドルジ(以下アジ・ケサン)が3代国王のもとに嫁ぎ……と、ブータンの王家であるワンチュク家との繋がりを、より一層強固なものにしていきました。また、ソナム・トプゲ・ドルジの妻はシッキム王家出身、ドルジ首相の妻はチベットの貴族ツァロン家出身……と、近隣諸国との結びつきも強い国際色豊かな一族でした。冬はカリンポン・夏はハと季節移動をしており(中尾先生は、ドルジ首相のカリンポンからハへの移動=「ハの殿様のお国入り」に付き従ってブータン入国を果たしました)、ブータン国内では南部地域の徴税等も担っていました。

ダライ・ラマ13世のカリンポン亡命中の滞在先がブータン・ハウスなのですが、私の理解では、ドルジ家はダライ・ラマ13世を迎えるにあたってブータン・ハウスを今の場所に新築しています。一族のそれまでの家は町の中心地近くにあり、そこは現在、アジ・ケサンのサポートのもとでニンマ派の僧院(ブムタンにあるカルチュ・ダツァン)の分院として機能しています。

カリンポンで発行されていた雑誌の記事からは、カリンポンとドルジ家、そしてカリンポンとブータンの繋がりの強さを垣間見ることができます。ブータン・ティータイム当日はそれらの紹介をさせていただくと同時に、アジ・ケサンを中心にドルジ家とブータン(特にハ)の繋がり、さらにブータンと日本の繋がりに思いを馳せました。

4. ブータン人の留学先

シッキム政務官(英領インド時代、シッキムの首都ガントクに駐在していたイギリス人政務官)チャールズ・ベルが記した1915年の年次報告書には、以下のような記述があります。

「46人のブータン人少年が、カリンポンのスコットランド国教会使節に任命された教師によって教育を受けている。彼らはラジャ・ウゲンとともに、冬はカリンポン、夏はブータンのハに滞在している。」

また、1916年の年次報告書には以下のような記述があります。

「別の学校が西ブータンのハに2~3年前から存在しており、そこには46人の少年が在籍している。寒い季節になると、彼らはラジャ・ウゲンとともにカリンポンに降りてくる。ラジャ・ウゲンは、カリンポンのスコットランド国教会使節のサザーランド博士からその学校の教師を獲得している。」

この「ラジャ・ウゲン」はドルジ家の初代ウゲン・ドルジのことですが、彼がその教育に尽力した「46人のブータン人少年」のカリンポンでの留学先はどこでしょうか。ここでは細かい説明は省きますが、彼らが学んでいたのは、ブータンの学校で使われている歴史教科書に記されているドクター・グラハムズ・ホーム(Dr. Graham’s Homes/ブータン・ハウスの近くにある1900年設立の学校)ではなく、SUMI(Scottish Universities’ Mission Institution/サザーランド博士が設立した1886年設立の学校)だったようです。SUMIに残された写真をはじめ、ウゲン・ドルジが1913年から1915年にかけてSUMIの「現地採用スタッフ」を務めていたこと等、いくつかの客観的事実がそれを証明しています。私の調べによると、キプチュさんの出身校でもあるドクター・グラハムズ・ホームにブータン人が留学するのは、インド政府の全面的支援を受けた国家開発が始まり、同時に留学制度も整備された1961年のことです。

今回久保さんから「カリンポンについて話して」とお声がけいただき、改めてカリンポンを訪問したときのことを振り返ることができました。どうもありがとうございました。掲載写真はすべて、ブータン・ティータイム当日使用した資料スライドです。

※ヤクランド『ヤクランド通信』第127号、2-4頁より転載。